日本酒の日 甲州街道沿いの5つの酒蔵を巡る催し 諏訪|平等院鳳凰堂 円覚寺舎利殿 東大寺南大門や浄土寺浄土…|着物で城下町散策 着物ウィークin萩 オープニング…|他

「日本酒の日」甲州街道沿いの5つの酒蔵を巡る催し 諏訪

2022/10/01 16:54
10月1日の「日本酒の日」にあわせて、諏訪市で、甲州街道沿いの5つの酒蔵を巡る催しが開かれました。
この催しは、諏訪市の中心部を通る甲州街道沿いの500メートルほどの間に並ぶ5つの酒蔵が開いたもので、新型コロナの影響で中止が続いていましたが、今回3年ぶりに開催されました。
1日は、抽せんで選ばれた500人が参加費を支払い、250人ずつ2回に時間帯を分けて、街道沿いの酒蔵を見学したり途中の2か所に用意された特設会場で日本酒を味わったりしました。
2つの特設会場では合わせて25種類の日本酒が提供され、参加した人たちは、つまみを手に飲み比べていました。
山梨県から訪れた60代の男性は「コロナで中止されていたので待ち遠しかったです。青空の下で酒が飲めるのは幸せです」と話していました。
今回催しを開催した5つの酒蔵のうち、江戸時代から360年続くという酒蔵の宮坂直孝社長は「同じ諏訪にあっても蔵によって日本酒の個性が違うので、それぞれの味を楽しんでほしい」と話していました。

平等院鳳凰堂、円覚寺舎利殿、東大寺南大門や浄土寺浄土堂で用いられた日本の寺院様式とは?【建築の話】

2022/10/01 14:05
日本の寺院様式は、時代のなかで併存してきた西洋の寺院は、ロマネスク様式(10〜12世紀)からゴシック様式(12〜15世紀)そして15世紀以降のルネッサンス様式と、時代とともに変化しました。ところが、日本の寺院様式は時代を反映していません。古代から受け継がれた和様、中世に成立した禅宗様と大仏様、おもにこの三つの様式が併存し続けてきたのです。
時代を経ても各様式は葛藤することなく、むしろ混在した折衷様式までうまれています。和様は、奈良時代に唐から伝来した様式がルーツです。そのあと遣唐使の中断などで次第に和風化され、和様と呼ばれるに至りました。
中国では朱塗りだった木部が木肌の素地になり、土間は湿気対策で高床に。柱上と柱間の梁の上に蟇股や束状の間斗束を載せるのは上部の荷重を分散させる和様特有の工夫です。代表例は平等院鳳凰堂などがあります。
禅宗様は、鎌倉時代に宋から伝来した建築様式です。日常生活すべてを修行とする禅宗の考えに基づき、宋の様式をそのまま取り入れました。
和様より垂直性が強く、細部は女性的な曲面をつかい、細かい部材を詰め込んだ組物による構成美が特徴です。代表例は円覚寺舎利殿。大仏様は東大寺再建に際し、当時まだ無名の僧侶、重源が生み出した様式です。
挿肘木(柱に穴を開け肘木を挿し込む手法)という大胆な方法で、雄大豪壮で男性的な表……

着物で城下町散策 「着物ウィークin萩」オープニングの催し

2022/10/01 13:49
萩市の城下町を着物姿で歩くイベント、「着物ウィークin萩」が1日から始まるのを前に、オープニングセレモニーが行われました。
「着物ウィークin萩」は、江戸時代の町並みが残る萩市を多くの人に知ってもらおうと、萩市観光協会や市などでつくる実行委員会が毎年、開催していて、今回が17回目です。
30日は、萩・明倫学舎で、観光業の関係者やボランティアなどおよそ80人が参加し、オープニングセレモニーが行われました。
イベント期間中は、着物で街歩きをすると、飲食店や土産物店での割引サービスや写真の無料撮影など、さまざまな特典を受けることができます。
着物や帯は、萩・明倫学舎など市内4か所で有料で貸し出していて、着付けもしてもらえます。
実行委員会の阿川仁海委員長は「旅行に行きたいという方の機運が高まっていると思うので、近隣から遠くの方まで多くの方に来ていただきたいです」と話していました。
この催しは今月10日まで開催されます。

後鳥羽上皇の乳母、藤原兼子が辿った生涯と人物像に迫る

2022/10/01 13:01
ちなみに、後鳥羽天皇が譲位した土御門天皇は、乳母を務めた姉・範子の孫にあたります。範子と僧・能円(のうえん)の間に生まれた、在子(承明門院)が土御門天皇の母です。
後鳥羽上皇院政の時代後鳥羽上皇の院政開始後も通親が実権を持っていましたが、建仁2年(1202)に彼が没した後は、後鳥羽上皇の独裁となります。ここから承久3年(1221)まで、土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行いました。
兼子は典侍となって間もない45歳のとき、同じく後鳥羽上皇に仕える公卿・藤原宗頼(むねより)と結婚。建仁3年(1203)に死別するも、年も改まらぬうちに同じく公卿の藤原頼実(よりざね)と再婚しました。
兼子は朝廷の重事を左右し、その威勢のほどは「権門女房」と評されるほどです。3代将軍・実朝がその夫人を京都に求めたときは、親縁の坊門信清(のぶきよ)の娘との婚儀を斡旋。また、建保6年(1218)北条政子が上洛した際には、実朝の後継者として、自分の養育している、後鳥羽上皇の子・冷泉宮頼仁(れいぜいのみやよりひと)親王を勧めたとも伝えられています。
こうした行為はいずれも、公家勢力を幕府に注入しようとする院政の方針に沿ったもので、上皇の意を受けてのことであったと推察されています。
「承久の乱」の勃発こうした計らいにより当初は円滑だった公武関係でしたが、執権……